一準について。その2 TAG2と『ブラヴィッシーモ!』

本文は一準同人誌を出すにあたり掲載したいと思っている分の草稿である。
その1はこちら

幼き日の冬野の中で、一準が神話になった。
今回はもう一つの神話『ブラヴィッシーモ!』と絡めた話。

『鉄拳3』がリリースされ、私の中で、風間仁の誕生は驚きであったが、特にショックだったのは、一八が死んでしまったということだった。

正確には、生死が明確では無い状態であり、準も「消息不明」とあったのだが、一八がいない『鉄拳』というものに結構喪失感を覚えていた。

何よりも新しい主人公である風間仁の登場がセンセーショナルで、一八の入る余地がないような気がしてしまっていた。

今から思えば「死ぬわけないじゃんwwww」なのだが、繰り返すが私は子どもだったし、鉄拳シリーズの歴史も3年とかそんな頃なわけだから、一八がもう出てこないと思ったとしても仕方ない。

3だったか、TAGだったかの製品版アンケートハガキに「鉄拳のストーリーは今後も三島一族を軸にしたものがいいと思うか」という質問があって、「違う可能性も検討されてるんだ……」と寂しくなったことも覚えている。
もちろん、現在この通りなので、私と同じ気持ちを返送した人が多かったのだとも思いたい。三島のない『鉄拳』なんて!少なくとも、ストーリーにおいては。

風間仁は、全てにおいてかっこよくて、それも一八とは違う。何が違うかというとまあいろいろあるが感情面でいえば

「クラスメイトに風間仁が好きだと言っても恥ずかしくない」

これである。一八が好きなんて言えなかった、それは恐らくガチ恋だったからである。
仁は、その血統と人柄において愛すべき存在だった。3の短い方のムービー(一八と準が出て切るやつ)を見せられて、好きにならないという選択肢がないのである。そして、一八がそうじゃないというわけではないのだが、仁は美形キャラであるという印象が強く、恋とかいうより、彫刻を見ているような気分になる。

私はこの仁への感情が「他人を好きだ」ということだと理解し、長らく一番好きなキャラは風間仁だと思っていた。実際好きだし、3とTAGではずっと使っていた。でも、一八がいなくなってしまったという喪失感は、ずっとあった。
TAGはお祭りで、あのオープニングとパッケージ以上にかっこいい一八はまだないのではないだろうか。一番ちゃんとやり込んでいたゲームかもしれない。

それが。

『鉄拳4』のリリースである。
一八、生きてたんかい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
しかも仁も全く性能が異なるキャラになってしまい、私は4でかなり『鉄拳』シリーズ自体に「?」を抱いた。それはゲームそのものへの悪い感情というわけではなく

「こんなげーむにまじになっちゃってどうするの」

を突きつけられた気分だった。
つまり、格闘ゲームにストーリーのロマンとか細やかな心情描写とかを求めるこちらの期待がおかしいのであり、ちゃんとゲーセンでゲームをやり込んで友達に勝つとか、試合に出るとか、そういうことをするのが正しい道だから、ストーリーや設定にショックを受けたりするのは自分の腹にスタンガンを当ててのたうち回って「何なんだよ!」と叫んでいるようなものなのだ。知らんがな。

当時ゲーセンに通いはしていたものの、友達と別のゲームにはまっており、格ゲーのゲーセンカルチャーは、大人になるまで分からないまま育ってしまった。そしてその間にゲームをめぐる環境は全く変わっていた。

私が鉄拳に再びのめり込んだのはさっきも述べたTAG2だ。
この作品では風間準が出てきたばかりではなく、アンノウンや新しいバージョンの『Landscape Under The Ghost -Kaminano』がエンディングになったりと、かなり(一準を追ってる人からすると)思わせぶりな演出が多数あった。一八と準が組んで負けた時のポースなんかめちゃくちゃかわいい。8では久々の再会にキュッとしてる準が、ここでは一八を叱っててかわいい。

今見るとエンジェルがアンノウンを解放するエンディングとか泣けちゃうよね〜〜〜〜〜〜〜!!!
この辺については後述します。

私は同人活動を始め、一準を突き詰めている人っていうのは一定数いるのだと分かった。知り合いができて、ちょっとだけゲーセンにも通ってみた。(ちょうど鉄拳20周年の頃)

大人になってから、ネット上で、風間仁好きの人たちの言説に触れる機会が多々あった。そして、その人たち(大抵は女性)の話している仁と、自分の理解している仁の間にかなりの乖離があることに気づいた。

TAG2の時にみんなが指している風間仁は、ストーリー上では6の仁であり、6の風間仁は三島財閥になってニヤリと笑ったり戦争仕掛けたりして一番ついていけない頃だったから(最近ようやく当時なぜあんなだったか分かるようになってきた)社会的な仁と内面の仁にズレが発生していた。

一番好きと思い込んでいた風間仁の遍歴に追いつけなくなって『鉄拳』シリーズから離れていたこともあり、仁を距離を置いて見るようになった。そこで初めて

私、本当は一八のことを心から愛しているのかもしれない……!

自分の素直な気持ちを受け入れるようになったのである。

でも今から考えれば、TAGの時のオープニングとパッケージの一八が最高に好きで何度も友達に見せたりとか(何度も言うけど、あのムービー、一八の良さの全てが凝縮されてる!)、他の好きなキャラクターも一八寄りの性格が多いことから考えても、最初からずっと一八が好きなのだが、私は3の、まさに『運命の稲妻』の仁も本当に好きだったから、認識がごちゃごちゃだったのである。

ここに来て、私はまた一準に向き合うことになる。

話はずれるが、TAG2が出る前の数年間、私は東京ディズニーリゾートの年間パスポートを持っていて、ランドとシーに通いまくっていた。
特にシーでは、『ブラヴィッシーモ!』という夜の水上ショーが公演されてる時期だった。古き良きディズニーシーを彩った名作である。公演時間20分のうちキャラクターの登場時間が5分くらいなのに(しかもミッキーのみ)2004年から2010年まで続いていた。

『ブラヴィッシーモ!』との出会いも何だか示唆的で、公演直前に情報誌『ディズニーファン』でショーの概要を読んだ瞬間に、「これ、絶対大好きなやつだ!!!」と直感したのである。

ストーリーは……
遠い昔、火の精プロメテオと水の精ベリッシーは別の場所に住んでおり、お互いに顔をあわせることもなかった。ところが、ある日二人はメディテレーニアンハーバーで出会い、魂の交感が起こる。

なんじゃそれ!と言われたとしても仕方がない。このショーは、台詞とかナレーションもないし、ただ音楽と水と炎と光の演出で魅せるショーなのである。あと鉄骨。
イメージしづらいと思うので是非Youtubeで検索していただきたいのだが、ディズニー映画でいうと『ファンタジア』とかに近い。なのでストーリーの説明がしづらいのである。

ショーの最初に、案内役のミッキーが「この場所(メディテレーニアンハーバー)がどうしてこんなにマジカルなのか知りたい?」というようなことを言って、ハーバーにまつわる昔話を紹介してくれる。

ここからは、大体の意見と私の主観が入り混じる解説になるが……

水の精ベリッシーは、美しいがどこか孤独を感じさせる存在である。それも、多分人といても自分の心の中に何か寂しげな部分があるタイプで、その気持ちを唄うのである。白雪姫の『私の願い』よりもずっと寂しげな呼びかけソングだ。水の光と音楽の幻想が終わり、ベリッシーは一旦退場する。

次に現れた炎の精プロメテオは、赤い光と炎を纏う不死鳥のようなイメージで現れる。水上に火炎を走らせ水しぶきを上げ、荒々しく、力強い歌声で何かを伝えたがっているようだが、誰からも何の応えもない。徐々にプロメテオの炎の力が弱くなり、影を落とし、諦めたかのように去ろうとする。

すると、そこにベリッシーが現れる。プロメテオの歌声に応えたのだ。
プロメテオの炎は心臓の鼓動のように波打ち、初めての出会いに震える。
お互いに声を掛け合ったのち(ここが私の好きなところだが)ベリッシーの方からプロメテオに近づいていくのである。

ベリッシーが近づくにつれ、プロメテオの炎は火花のように細かくなり、ベリッシーを包み込むように、羽が変形する。

そして二人を祝福するように花火が上がり、まるでオーロラのような水に包まれ、2人は1つになる。ミッキーが「ブラヴィッシーモ!」と叫んで締まる。

そしてショーが終わったあと、赤い光と青いの光を放つプロメテオが、まるで星座のようにハーバーに煌めいている。それがまた、ショーの余韻を深く残してくれる。
ショーが終わってから流れる曲はExit musicと言われるが、『ブラヴィッシーモ!』のExit musicは『Swept Away』というデュエット曲だ。

この歌詞からは、かつてベリッシーが孤独を感じていたが、プロメテオと奇跡の出会いを果たし、暗黒の中にいたプロメテオはベリッシーと出会ったことで心の奥底から愛を感じていることが伝わってくる。名曲だから聴いてほしい、ここまで読んでくださった各位、どうぞ頼む。絶対後悔しない。通常版は英語歌詞だが、日本語版もある!

本来、二人は水と火だから、惹かれ合うはずがないのだ。まして一緒になるなんて。でも、奇跡が起こる。
ブラヴィッシーモ!のキャッチコピーは「火は水に恋をした」「最高という名の奇跡。」
メディテレーニアンハーバーは、そのような特別な場所なのだ。

『ブラヴィッシーモ!』は、私の中では永久不滅のショー、それこそ「神話」になっている。

あくまで私の解釈だし、おそらく、っていうか、本題に戻るけど

『ブラヴィッシーモ!』はほぼ一準だと思っている。

自分の世界観として、一準と出会う前に『美女と野獣』があったのは間違いないが、一準という迷宮に、感情の流れを見出させてくれたのは『ブラヴィッシーモ!』なのである。

つまり、出会うはずのない2人が出会って、お互いの世界が全て変わってしまう、という奇跡を目の前で披露したショーだったのだ。

情緒のない人間は「水と火は打ち消しあってしまう」と言うし、Exit music中にベリッシーの姿が見えなくなってしまう(ように見える)ことから「ベリッシーは己の命を懸して愛を伝えた」みたいな、ベリッシー死亡説を唱える人もいたが、私は「プロメテオとベリッシーは一体になった」、あるいは、「火は水に恋をした」主格のプロメテオの姿を最後までフィーチャーしたのだ、と捉えている。

まあ意見はいろいろであるが、私たちが見せられたショーは「起こりえないことが2人の間に起こる」という内容であることは間違いない。それを起こすのが「マジック」なのだ。

一準に話を戻すと……
22歳の準は東京に来て、神秘的なものへの興味を失う、つまり本来の自分から遠ざかったところにいた。そこで父親の夢を見て、神秘的なものへの感覚を信じ、一八と出会う。一八は、デビルの力を纏っていたが、準と出会って一八の中で何か起こったのではないか。少なくとも、準に対してだけは。その存在を暗に裏付けるのがエンジェルなのでは……みたいなところを、『ブラヴィッシーモ!』は感覚的に理解させてくれたのである。

実際、プロメテオの燃え盛る姿がカッコよさすぎて、あれもまた理想の男性像であった。
プロメテオは精霊ではあるため性別とかはなさそうなのだが、よく動いて、声も低いし、セクシーである。
触れたもの全て燃やし尽くす怖さがあるんだけど、孤立していてどこか暗くて悲しそうなところがある。
男性性の象徴のようでもある。

そんな存在が、自分を受け入れる女性性の存在によって変化するのだ。
その変化は、言葉がなくても、伝わってくる。

牽強付会と思われるかもしれないが、私が自分の中でそう思ってしまった歴史がある。
『ブラヴィッシーモ!』は私の一準観に大きな影響を与えた。

TAG2が出たあと、こうした感覚や理解を元に、はじめて一準の同人誌を一冊出した。
これは手直しをして、再録本の巻末に載せようと思っている。

私は『ブラヴィッシーモ!』を何度も観た。
もう覚えていないが、五十回以上は見たか、グッズも全部買った。
今でも、最前列で観た時のガス臭い感じ(プロメテオの設計上、水辺に近いとガス臭いのである)とか、誰もいないエリアで泣きじゃくったこととか、昨日のことのように思い出される。最終日も観に行った。今でも観れるものなら観たい。

確かに「奇跡」は起こっていたのである。

その3につづく

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